東南アジア編


その人は、毎晩、叫んでいました。
昼間はウトウト寝て過ごし、夜になると叫ぶのです。

緩和ケア病棟に勤めていた頃の患者さんです。肺ガンを患った男性でした。山の中の小さな町で、ずっと農業を営んで来た、昔の男の人らしい無口で無骨でもの静かな方でした。が、夜になると、「オーイ、オーイ!」と叫び出すのです。私たち看護師は、叫ぶからには何か理由があるのだろうから、それを聴きたいと思いました。夜になり、叫び声が聴こえると部屋へ行って、「どうしましたか?何か怖いことがあるんですか?」と尋ねます。しかし、看護師の顔を見た途端、いつもの穏やかな表情を取り戻して、「いや、べつに。。。」と言って叫びを止めてしまいます。それで寝るまでそばについているワケですが、寝入ったな、と思って部屋を出ると、またしばらくして、「オーイ、オーイ!」と叫び出す。毎日がそんな繰り返しでした。

 

そのうちに、病棟の他の患者さんからクレームが来ます。緩和ケア病棟は、癌末期の患者さんのための病棟ですから、他の患者さんだって、たいへん辛い状況にいる訳です。最期の日々を安心して過ごすために緩和ケア病棟にいるのに、毎晩大きな叫び声が聴こえたら、たまったものではりません。なんとか昼間のうちに、叫びの原因を聞き出し、夜は寝てもらえないものかと、日中は車椅子で散歩に連れ出したり、レクリエーションに参加してもらったりしましたが、結局、車椅子の上でクークー寝てしまいます。考えた末に、看護師が部屋に行くと叫びは止まるのだから、ということで、毎晩ナースステーションで寝てもらうことになりました。

 

夜、周りが静まり返ると、叫びたくなる。でも叫ぼうとして目を開けると看護師がいる。「オー。。ングッ。」っと叫びを飲み込む。ウトウトするとまた叫びたくなる、叫びを飲み込む。昼も夜も、ウトウトしか眠れない訳ですから、本人はどんどん消耗していきます。病気の勢いも相まって、やがては話すことも出来なくなり、叫び声は病棟から消えていきました。

 

いわゆる危篤状態になり、奥さんが毎日付き添うようになった時、私たちは初めて、叫びの原因を聴くことが出来ました。この方は、若い頃、太平洋戦争の兵役で東南アジア、いわゆる南方の島に行かされたそうです。小隊長として小さな部隊を率いていました。そして、アメリカ軍との交戦の時に、自分より年若かった部下達に突撃の命令を出し、部下は皆、亡くなったのに、自分だけが生き残って、日本へ帰って来たのだそうです。戦後は、戦争中の体験を語ることもなく、黙々と田畑を耕して、温厚に生きて来た人でした。

 

緩和ケア病棟は、自分らしく死を迎えるための場所です。
裏を返せば、毎日、死と向き合って生きる場所です。そんな環境で、戦時中に部下を死なせてしまった悲しみ、苦しみ、悔いが蘇ったのでしょう。なぜなら、それが彼にとっての死の強烈な思い出だったから。
毎晩眠ろうとすると、目の前に部下達が現れるので、オーイ、オーイ、と呼んでしまうのだと、奥さんには話していたそうです。

 

この方が亡くなった時、私はもう一人の看護師と看取り、お見送りまでさせて頂きました。病院では、亡くなった方を見送る時、ご遺体が乗った車が見えなくなるまで頭を下げて送ります。緩和ケア病棟では、亡くなった方を見送るのは日常的な出来事ですし、医療者は、悲しくても泣くことは滅多にありません。でもこの時ばかりは、二人して、頭を下げたまま泣いてしまいました。叫びを止めてあげられなかったこと。思う存分叫ばせてあげられなかったこと。優しく温かいこの方が内に秘めていた、あまりにも深い悲しみ、悔いに対して、無力だった自分たちの未熟さが悔しくて、涙が止まりませんでした。

 

アメリカでは、ベトナム戦争で戦場から帰って来た兵士達が、心の病にかかったり、アルコール中毒や薬物中毒になって行ったことがきっかけで、兵士の心の傷を癒すセラピーが盛んになりました。60年代~70年代のことです。この運動は、「人間性回復運動」ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントと呼ばれています。ハンズオン・ヒーリングも、この流れの中で見直され、表立って教育や研究がなされるようになりました。日本人は、あまり心の奥底を他人に語ることをしません。地域の人と人の結びつきがしっかりしていた時代には、言葉にして語るよりも、集団の中で安心して暮らすうちに、個人の傷を集合無意識に溶かし込んで癒してきたのでしょう。でも、この方の、やむにやまれない叫びを思い出す時、戦争が日本にもたらした大きな傷は、何十年経ってもまだ癒しきれていないのだと感じます。叫ばれなかった叫びが、嘆かれなかった悔いが、日本人の集合無意識の中には、まだしっかりと横たわっているように思えてならないのです。