タンザニア遍


タンザニアのジェントルマン

その人は、私がまだ看護師に成り立てホヤホヤだった頃に出逢った患者さんです。
タンザニア大使館の運転手をしていたアフリカ系の黒人男性でした。さすが大使館で仕事をしている人だけあって、日本語はペラペラ。いつも穏やかで礼儀正しい、ジェントルマンと呼ぶのがとてもふさわしい人でした。肝臓を患っていた彼は、私の働いていた病棟に何度も入退院していました。
いよいよ病状が悪化し、なかなか退院出来ない状態になりました。
一人で起き上がることも出来なくなり、食事も軟食しか食べられなくなった頃には、体力が無くなったためか、英語しかしゃべらなくなりました。今も昔も適当な性格の私は、文法などおかまいなしのブロークンイングリッシュで会話だけは出来たので、彼の食事介助は私に回ってくることが多くなりました。プリンやヨーグルトを口に運びながら、彼のふるさと、タンザニアのことをよく尋ねた覚えがあります。タンザニアがアフリカのどこにあるのかも知らなかった私が、「キリマンジャロは見えるの?」と聴くと、「見えるよ。」「一度行ってみたいなあ。」というと、目を細めて、「行ってみるといいよ。今はどうやったって行けないと言うことはないんだから、行ってみるといい。」と言ってくれました。今思えば、自分はもう二度とタンザニアには帰れないことをわかっていたのだと思います。まだ若かった私には、そんな彼の気持ちを想いやることさえ出来ませんでした。

 

病状は更に悪化して、彼はナースステーションの隣の部屋に移動しました。
ものを食べることは愚か、酸素マスクをつけた重症患者になってしまいました。そんなある日の夜、深夜勤の看護師が見回りにいくと、ベッドに彼がいません。部屋を見回すと、もう決して立ち上がれる状態ではないはずの彼が、二つ並んだ酸素ボンベの後ろに立ち、まるで太鼓を叩くようにボンベを叩いていたというのです。まるで太鼓を叩くように。。。もうろうとした意識の中で、二つ並んだボンベが太鼓に見えたのでしょう。叩きながら、きっとタンザニアの言葉だったのでしょう、わからない言葉で、歌まで歌っていたそうです。
最期の力を振り絞って、彼はふるさとの太鼓を叩き、歌を歌っていました。
肌の色は黒く、見るからにアフリカンの風貌の人でしたが、それまでの穏やかな彼が見せたことのない、激しく力強い一面でした。翌日のナースステーションの話題を独占したのは言うまでもありません。そして、その数日後、静かに息を引き取りました。

 

人は、大人になり、社会に出ると、職業や家庭での役割に合わせたマスクをかぶって生きています。それは、社会に適応するためにとても大切なことですし、マスクをかぶったり、取り替えたりすることで、安定した人間関係や、幸福な生活を作り上げ、維持していくことが可能になります。でも、この世を去る直前には、作り上げて来たマスクを、ひとつひとつ、脱いでいかなくてはなりません。根源的な、本当の自分に戻ってゆくのです。彼がある時を境に、英語しか話さなくなったように、ひとつひとつ、脱いでいくのです。
この遠くアフリカから来た男性は、元気な頃は、とても日本を好きでしたし、日本の生活は快適だと話していました。それはもちろん、嘘ではなかったと私は思います。でも、最期の最期、彼が見せてくれた太鼓と歌のパフォーマンスは、私の心に深く焼きつきました。人は、表面に見えている部分だけの存在ではなく、内面に沢山の顔を持っている。自分でも忘れてしまっているような部分が、じつは、その人のとても大事な一面なのかもしれない、と。

 

こんな風にして、心優しいタンザニア人のジェントルマンが、私に初めて、人の内面に横たわる根源的な風景、ヌプカの風景を見せてくれたのでした。